2009年4月5日日曜日

Nicolaus Cusanus Nr.1

Nicolaus Cusanus 生涯とその時代(132) 近代の科学的思考の先駆 ニコラウス・クザーヌスは、1401年にドイツの西南部に当たるモーゼル河畔のクースに船主の息子として生まれた。彼は1416年にハイデルベルク大学に入学し、その翌年にアルプスを越えてイタリアのパドヴァ大学に移った。この大学は、法学教育で高名であり、クザーヌスは1423年にここで教会法博士の学位を得た。大学に入る前にネーデルラントの共同生活兄弟会の学校に学んだという説があるそれは彼が<新しい敬虔>という中世末期にネーデルラントを中心に盛んになった俗人を中心にする信仰覚醒運動に強い共感を持っていたことから、幼少のころ、この運動の教育実践のひとつである兄弟会の学校に学んだと推測されたものであるが、この事実を証明する記録は残されていない。 クザーヌスが文化的先進地のイタリアで六年間学んだことは、学位取得以上の大きな(133)意味をもった。まず、後に教皇ピウスせいとなるエネア・シルヴィオ・ピッコローミニや医者にして近代科学の先駆者とも称されるトスカネッリなどの多くの有為の人物と友人になった。また、すでに勃興しつつあったルネサンスの雰囲気に浴することができた。さらに、ローマ・カトリック教会の世界の東側に存在したビザンティン教会についても認識を深めることができた。そればかりか、東西のキリスト教世界と地中海およびボスポラス海峡で境を接して広がっていたイスラム世界にも目を開かれたのである。 学位取得後に故郷であるドイツに帰り、トリーア大司教の法律顧問官として仕えた。しかし、彼の関心は教会法を超えて哲学や神学にまで広がり始めていたようで、1425年の前半にトリーアから離れたケルンに行った。そして、ケルン大学で哲学と神学を学ぶために学籍登録をして、主としてハイメリクス・デ・カンポの講義(134)を聴講した。このハイメリクスを通じてライムンドゥス・ルルス(1231^1316)の思想に深い関心を持つようになり、1428年にはハイメリクスとともにパリに行って、ルルスの写本を筆写してきた。クザーヌスがルルスの思想から学んだものは、幾何学的図形をシンボルとして用いて思想を展開する方法のみならず、「協和」concordantiaという思想である。同時に見逃してならないことは、このルルスが「中世におけるもっとも偉大なイスラム教徒のための宣教師」であったということである。つまりクザーヌスにとってルルスは宗教間対話の先駆者であるとともにその成功と失敗についても学ぶことができる先人であった。 同じ1428年にクザーヌスは、新設のルーヴァン大学から教会法の教授として招聘を受けたが、これを断った。ルーヴァンの招聘は1435年にも再度なされたが、このときにもクザーヌスは断っている。このクザーヌスの姿勢には、理論的精緻さを自己目的的に追及していた大学の講談に魅力を感じることがなかったことと、彼の関心がすでに哲学や神学に向かっていたことが表れているだろう。
 教会政治への道 そしてまもなく、彼は聖職者に叙任されて、生まれ故郷に近いコブレンツで教会人としての歩みを始めた。現在まで残る彼の多数の説教の中で最初期のものは1430年(135)12月になされたものである。 1432年2月、クザーヌスはトリーアの大司教職をめぐる訴訟の関係でバーゼル公会議に参加することになった。そこの信仰問題分科会に所属した彼は、翌33年にフス派ボヘミア人のカトリック教会への復帰を彼らと協議する委員会の一員に選出された。そこで彼は、他の二つの要求をボヘミア人が撤回するならば両形色における聖体拝領を認めようという妥協案を提出した。このクザーヌスの提案はその時点ではボヘミア人側の受け入れるところとならなかったが、1436年に締結された協定の基礎となった。 同時に彼は、この公会議で展開されている種々の論争を目の当たりにする中で『普遍的協和について』という三巻構成の書物を書き上げた。それは、混乱しやんでいるキリスト教社会という有機体において、身体と精神、すなわち神聖ローマ帝国という国家とカトリック教会、皇帝と教皇という二つの権力を調和的に結合することで、この(136)有機体を治癒するべく、具体的な提案をするものであった。このクザーヌスの構想を支えたものは、宇宙の総体を階層的秩序として捉える新プラトン主義的思想であったが、ここにもルルスから学んだ協和の思想が影響を与えている。 この公会議での交友関係の中で彼がイスラムへの関心が掻き立てられ、コーランのラテン語訳および当時キリスト教世界に存在したイスラムに関する種々のラテン語文献の入手にいたったことも注目すべきである。この点については、スペインから来ていたセゴビアのヨハネスが特に重要な役割を果たしたことが推測されている。 バーゼル公会議が、公会議派と教皇派に分裂する中、クザーヌスは少数派の教皇派に組することになった。そして1437年に彼は、教皇派が東西両教会の合同を実現するために東ローマ帝国に派遣する使節団の3名のうちの一人に選ばれて、その年の10月3日にコンスタンティノポリスに到着した。ほぼ同時に到着した公会議派の使節団と競いつつ、クザーヌスたちは東ローマ皇帝ならびに東方教会総主教との交渉を成功裏に進めた。そして11月27日には皇帝ならびに東方教会総主教を連れヴェネツィアに向けて旅立った。この一行は翌1438年2月8日にヴェネツィアに到着し、4月9日にはフェッラーラで合同公会議が開催された。 この一連の使節としての活動に際して、クザーヌスは個人的にも大きな収穫を得た。その一つは、彼の思惟の根底を形成することになる<覚知的無知>docta ignorantiaの天啓をこの船旅の帰途、船上で受けたことである。もう一つはコンスタンティノポリスに滞在中のわずか二ヶ月足らずの多忙な日々の中で、彼が精力的にイスラムについての情報を集めたことである。 (138)このような使節としてのクザーヌスの目覚しい働きの結果、彼は教皇庁における重要な政治家と目されることになり、以後の生涯を彼は多忙のうちに送ることになった。当時の聖界と俗界の関係はきわめて微妙であった。聖界が教皇庁と公会議多数派に分裂している状況においてそもそも「教皇庁の乳牛」と称されるほど律儀に多額の教会税を納付し続けていたドイツ両方の諸侯は、この聖界の分裂を利して教皇庁にも公会議派にも組しないという中立宣言をした。このような情勢の中でドイツ諸侯を教皇側に引き寄せるために、ドイツ人でもあるクザーヌスは教皇の特使として十年間にわたって精力的に働き続けたので、揶揄の意味も込めて「教皇のヘラクレス」と称された。 クザーヌスらの努力の結果、1447年7月にドイツ諸侯が教皇側に与する事を決定するに至り、それは1448年のウィーン政教条約として発効した。この条約は、19世紀はじめの神聖ローマ帝国終焉まで教皇庁と国家の関係を定め続けた。この功績によってクザーヌスは1448年末に枢機卿に挙げられ、1450年3月にはブリクセン司教に選任された。市民階級出身者としては異例の栄進である。
 思想の成熟 この1450年の夏には、クザーヌスの思想に大きな実りがあった。夏の短い球界の間に『知恵に関する無学者の対話』(以後『知恵』)、『精神に関する無学者の対話』(以下『精神』)、『秤の実験に関する無学者の対話』(以下『秤の実験』)という3部作を書き上げたのである。これは無学者という、学識はないが信仰は篤いという存在が主役を務める対話編である。人間の知的能力の諸側面を高く評価すると同時に、その能力が神との関係において限定されたものであることを、無学者が力説する、という内容である。人間の知的探求は、既知なるものを基にして未知なる物を推し量ることによって成立するという『覚知的無知について』(1440)から『推測について』(1442)で発展された思想が、この一連の著作にも維持されている。なかでも『秤の実験』は、秤を用いての精密な測定を基盤として、さまざまな場面で扱われる<質>の違いを<量>(重さ)の多少によって説明しようとする内容を持っている点が特徴的である。このような特徴においてこの時期のクザーヌスの思想は近代の自然科学的思考の先駆とされることもある。
 活動的生と観想的生の<協和> 教会改革の日々(140) 聖年iubilaeumにあたった1450年の年末から52年春までの間、クザーヌスは教皇から教皇特使として現在の西ヨーロッパに当たる神聖ローマ帝国に派遣された。その任務は1450年の聖年記念贖宥をほどコストともに各地の教会と修道院を改革することであった。教会や修道院に対する彼の巡察は厳格を極めたので、行く先々でさまざまな妨害や陰謀が仕掛けられて、一再ならず生命が危険にさらされたこともあったという。 1452年春、一年半に及ぶ決して平穏とはいえない巡察旅行が終わると、クザーヌスは休むまもなく直ちに自分の司教区であるブリクセンの司教館に入り、司教区改革に着手した。しかし彼のこの企図は、チロル大公ジギスムントとの対立を招き、クザーヌスの晩年を過酷な日々とすることになる。彼の改革は、聖職者の綱紀粛正および信者の信仰の進化を進めることにとどまらず、かつて教会の領地であって現在では世俗領主の領地となっている土地の奪回をも含んでいたので、この司教区に君臨していたオーストリア大公兼チロル伯ジギスムントとの間で深刻な対立を惹起することとなった。また統治のゾンネンブルク女子修道院の改革実施に際しては、貴族出身の女子修道院長ヴェレーナ・フォン・シュトゥーベンとも激しく対立することになった。 同時にクザーヌスは、当時の司教としては異例なことに、主日ごとに自ら説教壇に立って司教区民に語りかけていた。こうして改革にいそしむクザーヌスの元に、1453年の7月中旬、その年の5月29日に自分もかつて滞在したことのあるコンスタンティノポリスがオスマン・トルコによって征服されたという知らせが届いた。その衝撃の中で彼は、同年の九月中旬に『信仰の平和』という小さな書物を表して、他宗教との平和的共存の方法を説いた。この年のほぼ同時期に『神学提要』と『神を観ることについて』という全く内容を異にする著作も著している。前者は幾何学を活用して神を探求することを説くものであり、後者は神を観ようとするものが歩むべき道行きを説く神秘主義的色彩の濃いものである。このように同時並行的に多彩な思考を展開する点にクザーヌスの思惟の特色が表れている。 (142)さて、1458年8月、パドヴァ大学時代以来の友人であるエネア・シルヴィオ・ピッコローミニが教皇ピウス2世に即位した。この貴族出身の高位聖職者は、クザーヌスがブリクセンで律儀に司教区改革に取り組むことで、その地の貴族達と深刻な構想を引き起こしていることを懸念してもいたし、構想でクザーヌスが疲弊していることを気遣っても居た。ピッコローミニはすでにその二年前と前年にもクザーヌスに対して、ブリクセンからローマに移って、教会全体のための助言を与えてくれるようにといっていたが、クザーヌスはブリクセンを離れようとしなかった。ピッコローミニは教皇に即位した直後に、今度は教皇としてクザーヌスに命令して、ローマにくるように行った。9月、ついにクザーヌスは自分の城を発ってローマについた。 翌1459年1月にクザーヌスは教皇から教皇特使兼司教総代理に任命されて、教皇庁と世俗領主との関係を安定させることと教皇庁内部の改革にまい進し、『全般的改革』という改革文書を起草提案した。しかし、枢機卿たち自らが生き方を変えることを含むこの改革提案は教皇庁内部で店ざらしにされ続けた。 教皇は早くから対トルコ十字軍を組織したいと考えていたが、クザーヌスはそれに反対していた。西欧キリスト教世界の諸侯がすでに、教会での一致よりも各自の利益を優先させ、イスラム世界との交易で利潤を上げている勢力も存在する現状からは、その構想がもはや非現実的であることを彼は認識していたからである。教皇はクザーヌスの(143)反対を押し切って1459年にマントヴァに、十字軍を組織するための諸侯会議を招集した。クザーヌスもそこに呼ばれたが、席上で彼は教皇に反対意見を具申した。 このような状況下の1460年から61年に掛けてクザーヌスは、『コーランの精査』というかなり大部な著作を書き下ろした。これは、教皇がこだわり続ける十字軍とは反対の方向の内容を持つものであった。イスラムの聖典であるコーランも、形が違いまた不明瞭で不完全であるにしてもキリスト教の福音と同じものを含んでいることを明らかにするべく、コーランの記述をふるいに掛けるという趣旨の著作である。
 晩年 このころ、すでに病気がちになっていたクザーヌスは、自分に残された月日が多くは無いことを自覚していた。そこで彼は、教会政治にかかわりつつも、同時に哲学的著作の執筆にも精を出した。そして、1464年の春には『テオリアの最高段階について』をまとめた。その直後の夏、ついに教皇は遅れに遅れていた十字軍を派遣することを決意し(144)た。集まったのは無頼の集団が主体の軍勢であったが、教皇は自らその先頭に立って六月末にローマを発ち、出発地である港町アンコーナに向かった。彼はクザーヌスに対して、後から兵力を補充しつつアンコーナに来るように命じた。自身の本意とは異なる内容であっても、長上である教皇の命令を拒むことは出来ない立場にあったクザーヌスは、七月初旬までにローマを発った。しかし彼は、目的地まではいまだ道半ばであるトーディの町で病の床についた。ローマから旧友で医者でもあるトスカネッリが駆けつけて手当てをしたが、クザーヌスはついにその床から離れることが出来なかった。八月11日、ついにクザーヌスは活動的生と観想的生が見事なまでに<協和>していたその生涯を旅の途中で終えた。その三日後に、先にアンコーナについていた教皇も、折から入港してきたヴェネツィアの艦隊を見ながら死去したのであった。 クザーヌスの墓は、ローマ市内の彼の名義教会サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリにあり、そこには彼の遺体が埋葬されている。そして心臓は、遺志に従って故郷にある聖ニコラウス養老院内の礼拝堂の床に埋葬されている。この養老院はクザーヌスが生前に自分の財産を使って建てさせたものであり、550年以上を経た現在でもモーゼル河畔で養老院として機能し続けている―――彼の固い意思がそうさせているかのように。(144)(伊藤博明編『哲学の歴史 第4巻 ルネサンス 15-16世紀』、中央公論社・2007年)